努力量と結果はイコールになりませんし、結果をともなわない努力は、少なくとも大人の世界では意味がありません。こんなこと、常識だと思っていましたが、今はそうでもないのですかね?
上記の記事ですが、冒頭は成績が悪かった大学生の話で、
「自分は一生懸命がんばった。がんばったのに先生はそこを一切考慮せずに評価する。これは差別だ、納得がいかない。」
と、講義してきたらしい。自分の試験の点数と、他学生の試験の点数分布を見ると、ぐうの音も出ない気がするのですが・・。努力が評価されるのは幼稚園までだと思っていました。
中学生時代の経験ですが、私の友達が野球部に在籍していましたが、上達せずに万年補欠。最終学年の3年生のときですら、ベンチ入りを1年生に取られてスコア係に回されていました。
私は、
「おまえはいったい何をしたくて野球部に入ったの?」
「努力してその程度なら別のことをしたほうが良くない?」
「個人競技なら、球拾いや、スコアを付けるのではなく、少なくとも試合には出られるぜ?」
と言いたかったのを覚えています。私なら、スコアをとりたくて部活をしているのではない。競技をしたい。と思うところですが、このあたりが、私には一生分からない団体スポーツ・フォアザチームの魅力なのですかね? もちろん、これを言うと、多くの人にイヤな目で見られるでしょうから、決して口には出しませんでしたが。
こんなひねくれていた私ですが、40歳を超えたあたりから、青春小説、映画で涙するくらいに成長(?)しました。そして、こんな私が涙した作品を1点、紹介させてもらいます。
まさに野球部万年補欠君が出てくる舞台です。高校演劇というのが、また感傷を誘います。
「隅っこに居る人」なら共感できると思います。この作品は高校演劇から映画化されました。私は映画から入りましたが、どちらも良いですよ。
コメント
この辺の世界は合理的な思考はあわない世界だからな、合理性を排除した方がいいのかもしれない。
時と場合により、合理性排除も必要なのですかね。
私は理屈大好きなので、なかなか・・。(^^;)